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中日新聞一面記事に紹介され

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 7月30日の中日新聞一面に、「横井庄一さんの戦死公報信じず」と題した記事が掲載され、戦死公報を受け取った横井さんの母親つるが、「まだ生きとる」と死んだことを否定し続ける一方で、お寺に立派なお墓を建てたり、我家の隣に建つお寺に永代供養を依頼していたことから、息子が死んだとは認めたくないものの、周りで多くの戦死者が出ている現実から、死んだと思うしかない複雑な心境が記されています。
 
 横井庄一さんは生後なもなく母親の離婚によって、母親の実家である我家に連れてこられ、当時は出戻りでは田舎にはおり辛く、母親は奉公先に住み込んで働いたため、母親の姉(私の曽祖母)と娘2人(私の祖母たち)の3人と、我家の大鹿庄一として小学校5年生まで生活しました。
 
 母親の再婚によって横井家に入ったものの、義父以外の親族には辛くあたられ、やっと洋服屋として独立したものの、戦争によって満州からグアム島に転戦し、昭和47年まで帰国できず、帰国したときに母親は他界していました。
 
 新聞記事にも記されていましたが、息子が戦死して横井家の後継者が無くなり、頼りとした夫も亡くなった中で、親族からいじめられ、追い出そうとしたり資産を狙う親族の横槍に、「息子は生きている」という一言が封印し、生きていると信ずることが生きて行く活力になったと私は推察しています。
 
 (下記は横井さんによる幼少時の記録です)
 の当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
 現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
 それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。
 私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
 自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿庄一をもじって、「オシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
 子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
 
 
 私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
 「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」 と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません。
                                    横井庄一手記「明日への道」から
 
 
                                  平成25年7月30日
 

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